続きです。
自転車は延長された甲州街道を走っています。
想定ゴールを諏訪湖としているものの、
ちっとも進みません。
蔦木宿を出て、釜無川沿いを進みます。
周囲は相変わらず続く七里岩台地の筈ですが、
緩やかな斜面で樹木に覆われ
普通の山裾のように見えていました。
国道20号はその中腹を走っている形です。
崖が終わっただけでも進んでいる気になれます。
史跡らしきものを中腹の高みから見つけ、
何事ならんと釜無川河川敷レベルの
水田地帯まで下りてみました。
甲州街道で何度も見ている
明治天皇巡幸の地の案内でした。
読み返してみると
前後のルートと経緯まで書かれており、
なかなかの読み応えです。
お立ち寄りの案内は数々見ていますが、
ここまで詳細丁寧に書かれた巡幸の地案内は
見たことがないように思います。
曰く、「御野立所の位置は、
あらかじめ宮内省より(中略)指定されていた。
地元ではそこに白砂を盛って
菊花紋のついた紫の幔幕を張り巡らし、
白木の机と椅子を備えて玉座とした。(中略)
天皇は金色燦然たる大元帥の礼服を着用され、
(中略)
ここまでは二頭立ての馬車で来られたが、
行き先の瀬沢坂、芋ノ木坂が難路のため、
四人担ぎの板輿にお乗り換えになった」
七里岩メカゴジラモードとでも申しましょうか。
戻って、しばらく大人しく国道20号を走ります。
こんな写真を撮りつつ、
しばらくおじさんクロスバイクと前後しながら
進みます。
要は相変わらずスピードが上がっていない、
というハナシです。
ここで国道20号が珍しい大きなカーブと、
急な上りです。
明治天皇が板輿にお乗り換えで越えたという
瀬沢坂はここらしい。
何やら史跡の案内も見えます。
ぐるりと急カーブで信号も無し。
車道を渡るにも見通しが効かず、
怖い思いと自動車にも迷惑をかけました。
後で気づいたことに、
一つ前の写真右端にわずかに写る建物は
歩行者用の横断トンネルになっていたのでした。
そして辿り着いた(というにふさわしい)
史跡は「瀬沢合戦場跡」
・・戦闘が後年の創作かもしれない由。
危ない目に遭いながら道を渡ったのに。
ついでながら、史跡の中でも「戦場跡」は
なかなか保存と見せ方が難しいなあ、と
学芸員資格保有者は思うのです。
同じ甲州街道で上野原付近を走った折も、
「矢坪坂の古戦場跡」にて
そんなことを考えたのでした。
さらに国道20号を進みつつ気が付いたことに、
また古道の集落を見逃しつつあり。
時間を考えるとこのまま進むのが妥当です。
・・・がまたしても軌道修正し、
わざわざ山を上り集落に分け入ります。
ちっとも気が進まず、
遠く眺める国道20号も不安感を煽るというのに。
なんてことのない集落に見える小道を進みます。
古道感が全く無し。
あまつさえ急に上りがきつくなり、
ヲレ何をやってるんだろう感が満載。
ここまで上りと言えるような上りがなく、
その意味では歓迎ではありますが、
想定外の斜度なのでした。
左右に古道の趣きを求めつつ喘ぎつつ、
ひたすら上ります。
ロードバイクじゃなくては無理。
そんなキョロキョロクライム走行が奏功したか、
(ここ西尾維新風)
ようやく見かけた史跡案内。
「芋木風除林」は「富士見町指定天然記念物」。
史跡ではないのでしょうか?
明治天皇巡幸の御野立所で読んだ「芋ノ木坂」は
この「芋木」に至る上りだった模様。
これは確かに馬車は無理。
とりあえずルートは合っているらしいので
安堵しました。
そうして「芋木風除林」案内を読むと
風が強く穀物が実らぬ地であったために
作られた防風林だったのでした。
(200年経っているとはいえ天然記念物?)
そして本文中に見える「樋口」は我が母方の姓。
全国に数多ある姓らしいものの、
父祖の地・諏訪に近いこの地で見ると
縁がありそうに思えてしかたありません。
宮本常一「日本文化の形成」に曰く、
「江戸時代というのは
人の移住移動を極力制限した時代であったし、
稲作農耕を中心にする生活者は
定住率がきわめて高いのであるが、
そのような状況と時代の中にあっても、
人はなおなしくずしの形で
動いていたのである」
農耕に厳しい地で、
さらに樋口の中でもダメな奴が食い詰めて
諏訪方面に移動したとしても
何ら不思議じゃありません。
父祖の地を訪ねる旅は、案外
父祖のルーツを追って走る旅と考えても
面白いかもしれません。
続きます。